
(画像出典:トラベルブック)
リバプール。
ウェッジウッド創業者のジョサイア・ウェッジウッドと、共同経営者であり親友でもあったベントレーが出会った港町です。ウェッジウッド社で作られた多くの食器も、リバプールを出港してアイルランドやアメリカ、オーストラリアの市場へと輸出されていきました。

リバプールといえば、リバプール出身のビートルズが有名ですよね。
この町は、17世紀ごろまでは小さな港町でしたが、17世紀末から突如として巨大な町に発展します。
その理由が、「奴隷貿易」。
実はリバプールでは、アフリカの奴隷を買い付け、新大陸と言われたアメリカ大陸に売り飛ばすビジネスが行われていました。これにより、フランスのマルセイユやナントと並ぶ、有数の港となったのです。

リバプールの隣町マンチェスターは、リバプールの奴隷商人たちの投資により、産業革命を牽引する工業都市へと大きく発展しました。


リバプールの町には、当時をしのばせる地名がたくさん残っています。
たとえば、「ボールド・ストリート(Bold Street)」は、当時活動していた奴隷商人の名前(Jonas Bold)から名付けられた地名。
そして、「ジャマイカ・ストリート(Jamaica Street)」は1655年にイギリスが力づくで植民地にした、カリブ海の砂糖の最大の供給地ジャマイカから。ジャマイカは、リバプールを出航した奴隷船の最終目的地でもありました。
そんななか、ウェッジウッドの創業者・ジョサイア・ウェッジウッドが貢献した活動の一つが、奴隷解放運動です。このお話をするには、まずはこの時代の背景をしっかりと把握しておく必要があります。
これを知ると、「そもそも、なぜイギリスが、世界に先駆けて産業革命を成し遂げることができたのか」という、今までお話してきたジョサイアの生きた時代の根本が、すんなりと理解できるかと思います。

元・社会科の塾講師も務めていた私が、できるだけかみ砕いてご紹介していきます。
「歴史が苦手」だったという方も、ぜひ読み進めてみてくださいね!
さて始めていきましょう。
イギリス産業革命の成功は、「大西洋三角貿易」の恩恵
早速ですが、
「大西洋三角貿易」(別名「奴隷貿易」)
この貿易の名前、中学生の時に習ったのを覚えていますか?
大西洋三角貿易を端的にいえば、「大航海時代以降、大西洋を挟んで行われた、ヨーロッパ・アフリカ大陸・新大陸(アメリカ大陸)による貿易」のことです。

そして、先に結論から言うと、イギリスはこの三角貿易で莫大な利益を得ることができたので、世界に先駆けて産業革命を成し遂げることができたのです。
では、三角貿易がいったいどんな貿易だったのかを、
①大西洋三角貿易の背景
②三角貿易の内容
③三角貿易の影響
という3つのパートに分けて、順番に説明していきましょう。
<①大西洋三角貿易の背景>
これからお話する時代は、ジョサイアの生きた18世紀から、さらにさかのぼること300年前の15世紀(1400年代)の話です。

「イシクニ(1492年)発見コロンブス」などの語呂合わせでも有名?な、コロンブスの活躍した時代ですね。
当時のヨーロッパでは、食文化が多彩となり、アジアの香辛料の需要が拡大していました。しかし、そんな香辛料は、陸路を利用して、イスラム商人からかなりの高額で買うしかありませんでした。

なぜならインドとヨーロッパの間は、オスマン帝国などのイスラムの国々が支配しており、彼らが香辛料などに高い税金をかけていたからです。

当時のヨーロッパ諸国にとって、オスマン帝国は”宿敵”と呼んでもよいほど、関係性が悪かったのです。
そのため、ヨーロッパの人々にとって、イスラムを経由せずに安く香辛料を買うのは、長年の夢でした。
そこで目を付けたのが、大西洋を利用した、海路の開拓。
先陣を切ったのがポルトガル。ヴァスコ=ダ=ガマはアフリカの喜望峰を回って、1497年にインドのカリカットに到着し、無事にお目当ての香辛料をヨーロッパに持ち帰ることに成功しました。


ヴァスコ=ダ=ガマのインド到着は、ヨーロッパ人の夢が叶った瞬間だったのです。このとき船員の3分の2を失うという過酷な船旅だったようです。
そして先ほど紹介したコロンブスは、当時ポルトガルが東回り航路でインドに到達したのに対し、西回りでインドに到達する事を計画し、1492年、現在のバハマ諸島の一角に到達し、「西洋人による新大陸(アメリカ大陸)発見」を成し遂げた人物です。
彼自身は生涯、新大陸を「インド」だと思い込んでいたそうですが、いずれにしてもこの新大陸発見が世界を大きく変えることになります。
大西洋航路の開拓によって、その後16世紀に入ったころには、ポルトガルやスペインが新大陸を征服・植民地化し、ラテンアメリカの先住民を、鉱山や大農場で奴隷として使いました。
奴隷となった彼らは、過酷な労働や、ヨーロッパからもちこまれた感染症によって、多くの人々が命を失います。
それを補うため、ヨーロッパ人はアフリカに、人的資源を求めて進出していくのです。
<②大西洋三角貿易の内容>
場所は変わって、ここからはアフリカ大陸と、イギリスの話です。

今までの新大陸(アメリカ大陸)の話は、大西洋航路をいち早く開拓していったポルトガルやスペインの話でしたが、イギリスでも、国内でのコーヒーや紅茶の需要拡大につれ、人気が高まっていった砂糖や、織物業の原料となる綿や麻の生産・輸入において、奴隷は、重要な労働力だと考えました 。
イギリス人の商人たちは、西アフリカで黒人奴隷を買い、奴隷船で新大陸に輸送しました。
このとき、新大陸に到着する前に栄養失調や伝染病、自殺、反乱などで多くの黒人奴隷が命を落としたといわれています。


ちなみに、この奴隷売買には、奴隷として売買”される側”のアフリカ人も関わっていました。
アフリカでも他の地域と同じく部族や国の争いが起きていて、そこにヨーロッパの商人がやってきて「戦争で捕まえた人間を買いたい。必要な武器は俺たちが売ってやろう。」と西アフリカの国々に持ちかけたのです。
ヨーロッパ商人たちとの商売で儲かると考えたアフリカの人々は、積極的に奴隷狩りを行い、捕まえた人々を奴隷として、ヨーロッパに売り払いました。
お金のために、自国民を他国に売る…なんとも悲しく暗い歴史です。
そして場所は、再び新大陸へ。
新大陸に運ばれた奴隷たちは、白人の農場主のもと、現地の農園で働かせ農作物をつくらせました。

北アメリカではタバコや綿花、中南米では砂糖やコーヒーがつくられ、ヨーロッパに向けて送られました。



織物をはじめとした、製造加工品や武器を積んだ船がイギリスの港を出て、西アフリカに辿り着く。
アフリカの港で、これら製品と交換に船に詰め込むのは、現地の奴隷商人から得た黒人奴隷達。奴隷を乗せ、船は荒れる大西洋を渡り、新大陸と西インド諸島へ。
ここで、奴隷と交換に、砂糖、たばこ、綿等を得て、船はイギリスへと戻る。
この流れが「大西洋三角貿易」です。
<③大西洋三角貿易の影響>
大西洋三角貿易で、最も大きな利益を得たのがイギリスでした。
彼らは新大陸で大量に綿花を生産させ、さらにその安い綿花で綿織物を大量に作り、世界中に安い綿の衣服を売ることで、その儲けを機械を発明する原動力に使って、さらに生産量を爆発的に増やしました。

イギリス大西洋側の港町リバプールは、こうした奴隷貿易で巨額を築き上げます。
築かれた富が、産業革命に向けての新しい技術や事業に投資されていったことを考えると、イギリスの富は奴隷貿易の上で築かれた、といっても過言ではないのかもしれません。
しかし、そんな奴隷貿易に対し、廃止を求める動きをするイギリス人も少なくありませんでした。
その一人が、ジョサイア・ウェッジウッドだったのです。
次のコラムでは、ジョサイアと奴隷解放運動についてご紹介していきましょう。
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