「イギリス陶工の父」と呼ばれた創業者
「食器×歴史上の人物 第2話」では、前回に引き続き、ウェッジウッドの創業者であるジョサイア・ウェッジウッドの話です。

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のちに「イギリス陶工の父」と呼ばれるようになったジョサイア・ウェッジウッドとは、どのような人物だったのでしょうか。
今回から本格的に、ジョサイアについて掘り下げていきます。
ジョサイア・ウェッジウッドは1730年、スタッフォードシャー(シャーは「地方」という意味)のバーズレムにある小さな陶房を営むウェッジウッド家の13番目の子どもとして生まれました。

なかなか子だくさんな家庭ですよね。でも当時のイギリスでは珍しいことではありませんでした。昔の日本でも10人兄弟はざらでしたものね。
ちなみに、ジョサイアの生家はもう残っていません。
ウェッジウッドの創業者ジョサイア・ウェッジウッドの人生は、幼少期から苦難と幸運の連続でした。しかし幸運といっても、「たまたま」起きた出来事ではなく、必然的に起こりうる幸運だったように私は思えます。
彼の身に起きた「必然的な幸運」に関するエピソードをご紹介しましょう。

きっかけは病気。 それがウェッジウッド成功の基礎になった。
まずは幼少期。
彼は数学が得意で、勉強好きな少年でした。学校が楽しみで、片道6キロ近くの道のりを毎日歩いて通っていたほどだといわれています。
しかし、ジョサイアが9歳のときに作陶家であった父親が他界。
そのため彼は生活のために大好きだった小学校を辞めて、長兄トーマスが受け継いだ父の陶房で徒弟修業を始めることになりました。
さらに不幸は続きます。ジョサイアは11歳の時に天然痘にかかり、その後遺症で右ひざの関節が不自由になってしまうのです。
ロクロを蹴ることができなくなったジョサイアは、発想を切り替えます。
彼は、「ロクロが使えないなら、作ることは職人に任せて、自分は開発やマネジメントに専念しよう」と考えたのです。
そして釉薬や素地の改良、装飾デザインの研究、新作品のアイディアや調査などに没頭しました。もともと数学や勉強自体が好きだったこともあり、結果的に、その研究開発で培った知識や持ち前の勤勉さが、今後の成功の礎となっていきます。

当時、天然痘はペスト(黒死病)と並んで死の病として大変恐れられていた伝染病でした。そのため、辛くも命だけはとりとめたジョサイアは、この病気を悲観しませんでした。
さらに足を切断。しかし、それさえも幸運につながる。
しかし、彼はその後も足の痛みに悩まされ続けることになります。
そして37歳には右足切断という、当時は死の危険を伴うような大手術を受けます。

この手術、麻酔なしで行われたとか…。(※所説あり)とりあえず手術は成功します。
そして、この辛い出来事が、彼にとって更なる大きな幸運のきっかけに。
辛い出来事だと思えるこの手術でしたが、実は、右足を切断するときに、彼は運命の出会いをします。のちに全幅の信頼を寄せ、生涯の親友となる共同経営者(パートナー)のトーマス・ベントレーとの出会いです。
ベントレーとの出会いを通し、ジョサイアは実業家・経営者としてのセンスをさらに磨き上げ、ウェッジウッド社がヨーロッパ中にその名を知らしめるきっかけを作ることになりました。

病気により右足が不自由になることで、製陶に関する知識を培い、そして右足を切断することで、運命的な出会いを果たす―。
その瞬間は不幸とも思えることが、実は結果的には彼にとって必然的であり、必要なことであり、最善の状況に導くきっかけとなったのです。
皆さんは、このエピソードから何を感じましたか?
私は、
① 悪いことも捉え方次第で良いことになる。マイナスの部分にばかり集中せず、ポジティブに行動していくことが、後の成功につながる。
②そうはいっても、自分の力ではどうすることもできないことも起きるのが人生。そんなときには、運命に身をゆだねることも大事。
そんなことを、ジョサイアの生き方を通して感じました。
さて、今回の後半で登場した共同経営者ベントレーとは、いったいどのような人物だったのでしょうか。続きは次回に・・・
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