「食器×歴史上の人物」。
これまで、ウェッジウッドの創業者であるジョサイア・ウェッジウッドについてお話してきました。
【食器×歴史上の人物(ウェッジウッド編)バックナンバー】
- 【第1回】ジョサイア・ウェッジウッド (1)
- 【第2回】ジョサイア・ウェッジウッドから学ぶこと(1)
- 【第3回】ジョサイア・ウェッジウッドから学ぶこと(2)
- 【第4回】ウェッジウッドの創業者は、ビジネスのアイディアマン!
- 【第5回】ウェッジウッドの創業者の社会貢献①
- 【第6回】ウェッジウッドの創業者の社会貢献② -奴隷解放運動に尽力(1)
- 【第7回】ウェッジウッドの創業者の社会貢献② -奴隷解放運動に尽力(2)
今回から、イタリアが誇る名窯「リチャード・ジノリ」に関連する人物をご紹介していきます。

早速ですが、リチャード・ジノリで皆さんよく勘違いされるのは「リチャード・ジノリさん」が創業した、と思われることです。
違うんですね。
リチャード・ジノリは、「リチャード陶磁器会社」と「ジノリ窯(ドッチア窯)」が合併して誕生した窯なのです。
このブランドは「創業者が貴族」という珍しいブランドで、まさしく「食器×歴史上の人物」のテーマにもってこいの、魅力的な登場人物満載のブランドです。特に、合併して「リチャード・ジノリ」となる前身の「ドッチア窯」の創業者から5代目までの物語は非常にドラマチックです。
そこで次回以降からは、初代から5代目までの人物像に迫ってみたいと思います。

今回は、前座としてドッチア窯誕生の背景を探ってみましょう。
【食器×歴史上の人物 リチャードジノリ編 ~目次~】
- 【リチャード ジノリ編(1/7)】ジノリ窯(ドッチア窯)誕生の時代背景 (現在閲覧中)
- 【リチャード ジノリ編(2/7)】バロック様式でベッキオホワイトを生み出した創業者
- 【リチャード ジノリ編(3/7)】ロココ様式でイタリアンフルーツを作った2代目
- 【リチャード ジノリ編(4/7)】新古典様式で流行を捉えた3代目
- 【リチャード ジノリ編(5/7)】ワールドワイドな異国趣味を流行らせた4代目
- 【リチャード ジノリ編(6/7)】万博で飛躍するもドッチア窯が終焉した5代目
- 【リチャード ジノリ編(7/7)】番外編:貴族の一番の価値はパトロン精神にある
ドッチア窯の誕生した歴史的背景
ドイツのマイセンは、1708年にヨーロッパ初の硬質磁器に成功します。磁器はその当時、金と同等の価値があったので、ヨーロッパ各国にとって磁器の製造技術は、喉から手が出るほど欲しいものでした。マイセンにスパイを送り込んだり、人を引き抜くなど、あの手この手で2番目の窯を目指します。その結果、1718年にオーストリアのウィーン窯(のちのアウガルテン)が磁器づくりに成功します。

そして舞台は、約17年後のイタリアはフィレンツェ(当時のトスカーナ大公国)へ。
トスカーナ大公国というのは、現在のトスカーナ州の領土のことで、ローマ、ミラノ、といった都市を、当時は一つの小さな国として貴族や諸侯が治めていました。トスカーナ大公国の当時の首都が、フィレンツェだったのですね。

かつてフィレンツェは、地中海貿易で栄えていましたが、コロンブスに始まる大航海時代を迎えると、それまでの地中海貿易から大西洋貿易へと転換します。それによって地中海貿易が縮小したフィレンツェは、衰退の一途でした。

いわゆる大航海時代の「商業革命」です。高校の世界史で習ったのを覚えてはいませんか?
今までは、アジアからの香辛料は必ず地中海(北イタリア諸国)を通っていたのに、高い関税と新たな大航海による貿易ルートの開拓で、海の玄関口がポルトガルに移ってしまったのです。
そんな中、磁器愛好家で、科学や鉱物学に長けていたカルロ・ジノリ侯爵は、トスカーナの衰退を憂い、再び繁栄をもたらすには硬質磁器の生産が必要と考え(先述の通り、磁器は当時の人々にとって金と同等の価値があったので)、1735年にフィレンツェ郊外のドッチアにある自分の別荘に窯を開きました。
これが、現在のリチャード・ジノリの前身「ドッチア窯」だったのです。


イタリア語でシャワーを表す「ドッチア doccia(発音は”ドッチャ”)」という地名は、「水が豊富にある所」という意味を持ちます。
上記の地図でもわかるように、ドッチアの背後には森があります。磁器作りには多くの水と、窯を炊くための沢山の材木が必要だったので、ドッチアは格好の土地だったのでしょうね。
地中海貿易時代に大いに繁栄し、ルネサンス文化のパトロンでもあったトスカーナ大公国のメディチ家は、地中海貿易の衰退とともに勢力を失い、とうとうメディチ家最後のトスカーナ大公であったジャン・ガストーネが1737年に没すると断絶してしまいました。
そして、代わりにトスカーナ大公を引き継いだのが、マリアテレジアの夫であるフランツ一世(マリーアントワネットの父)だったのです。

フランツ一世とマリアテレジアは、政略結婚が当たり前の当時には珍しい、恋愛結婚で結ばれました。しかしその結婚には周辺諸国が猛反発し、その結果フランツ一世は故郷であるロレーヌ公国(ドイツ国境付近のフランス北東部)を手放すことに。
その代わりに、当時空位となっていたトスカーナ大公の座を引き継ぐことになったのですね。


イタリアのトスカーナの地に、オーストリアのハプスブルク家がやってきた!
ヨーロッパで2番手として硬質磁器を生み出したウィーン窯の王様がトスカーナにやってきたのとほぼ同時期に、リチャードジノリの前身であるドッチア窯が誕生した・・・偶然のようなこの歴史、私には必然のように思えてなりません。次回は、その初代創業者のお話です。
【食器×歴史上の人物 リチャードジノリ編 ~目次~】