『吹屋ベンガラ』― 有田焼に使用された赤色を作っていた先祖の話

8月16日。
送り火を焚いて先祖の霊を見送る今日は、私自身の先祖と陶磁史が絡む本をご紹介します。

それが、『吹屋ベンガラ ―それは岡山文化のエッセンス―』(臼井洋輔著,日本文教出版,2016年)。

ときどき過去の自分の記録を読み返すことがあるのですが、過去に書いたブログを読み返すと、ちょうど一年前のこの時期に、私は岡山県高梁市成羽町にある吹屋(ふきや)にいたことがわかります。

一期会ブログより ※外部リンク)
(2018年8月15日撮影。
電車だとJR伯備線備中高梁駅を下車後、「吹屋行き」バスに乗ってさらに約60分。去年は車で行きましたが、細く長い山道を抜けて見えてきたのは、赤銅色の石州瓦とベンガラ色の外観で統一された、ノスタルジックな町並み「吹屋ふるさと村」。)

この吹屋は、幕末頃から明治時代にかけて、銅鉱とともに硫化鉄鉱石を酸化・還元させて人造的に製造したベンガラ(酸化第二鉄)における、日本「唯一」の巨大産地として繁栄を極めた村です。

……と、なんだか理系でない人にとっては小難しい話に思われるかもしれませんが、話したいのは化学的なものではなく、もっと文化的な話。

実はこの吹屋ベンガラは、有田焼や九谷焼などの日本磁器とは切っても切れない、とても深い縁があります。

ベンガラは、紅色の顔料で、有田焼や伊万里焼、九谷焼などの磁器の絵付け用、また防虫・防腐の機能性から、家屋の塗料用など、日本の暮らしに古くから根付いている素材です。

(ベンガラ)

ベンガラは古代より天然のものは存在していましたが、江戸中期(1707年)に日本で初めて、人の手で作り出すことに成功しました。それが「吹屋ベンガラ」というわけです。

有田焼では色絵付けのことを「赤絵」とも呼びますが、その名前からわかるように、磁器の色のなかでも赤というのはとても重要なもので、それを日本で唯一供給していたのが、吹屋だったのです。この本によると、幕末から明治時代頃にかけては、実に95%以上のシェアを獲得していっていたそうです。

誰一人として海外へ行くことはあり得なかった300年以上前の江戸時代に、岡山産の吹屋ベンガラで絵付けされた衣装を美しくまとった伊万里(有田)焼の名品たちは、遠く異国から請われて、晴ればれと外国に渡っていた。
長崎の出島からいわゆるセラミックロードを通って、そのルート上の津々浦々、それぞれの国々の空気を一杯吸いながらヨーロッパまで渡り、異国での生活にすっかり入り込んで、その土地の人々を美しさで幸せにしていったのである。

日本最初の磁器である伊万里(有田)焼は、瞬く間にインターナショナルな地位を確立した。世界にその美しさを轟かせたこの伊万里(有田)焼に施された赤絵付け顔料は、実はほとんどすべてといってよいほど岡山の吹屋ベンガラであったのである。
(4頁)

私の曽祖母は、そんなベンガラの原料となる「ローハ」の製造で財を成した「広兼家」の長女でした。

ひぃおばあちゃんの生家(広兼邸)
(詳細はhttps://ja.m.wikipedia.org/wiki/広兼邸

明治時代、曾祖母が吹屋から私の地元である倉敷市の玉島へ嫁入りする際には

”田舎の名家の長女(曾祖母)が、金襴緞子に身を包み、
備中の高梁川を悠々と舟で下っていき、
嫁すべき港(私の地元)についたとき、
その嫁入りの大行列は
町を上げてのお祭り騒ぎとなった”

と、唄にまでなりました。

広兼邸のある吹屋でベンガラを作られ始めたのは、今から300年程前の宝永4年(1707年)のこと。1751年ごろから多量生産ができるようになり、それ以来吹屋ベンガラはベンガラ長者を生み出しながら、「ベンガラといえば吹屋」と呼ばれる程に、その繁栄と名声を欲しいままにしてきました。私の曾祖母もそういう時代に生きていたのです。

しかし、そんな吹屋ベンガラも時代の波には勝てず、近年の化学工業のさらなる発展により、必然的に有機顔料が次々と製造されていき、昭和49年(1974年)には完全に製造が中止されました。今となっては、吹屋ベンガラの赤色は、完全に幻の色となってしまったのです。
(それでもなお、保存されていた当時の吹屋ベンガラを使って、今も赤絵付けを施される有田焼の人間国宝の先生もいらっしゃいます)

この『吹屋ベンガラ ―それは岡山文化のエッセンス―』では、吹屋ベンガラの誕生から破綻までの一連の歴史を通して、「文明の進化が文化を衰退させている」ということを強く訴える内容となっています。

まるでダーウィンの進化論の「優勝劣敗」に反するような「良いものが亡(ほろ)びる」ことがあちこちで起きている。
(3頁)

技術が進めば進むほど、作品のレベルは落ちていく法則があると私は思っている。
(141頁)

実はこれと同内容のことが、先日のコラムで紹介した『デザインの国イギリス』の本文中にもありました。

「文明」の発展が、正しい「文化」を育成するとは限らないのである。むしろ、やむことなき物質的繁栄の追求、生活水準の向上を目指して成長しつづける「文明」の進歩は、しばしば既存の「文化」を破壊し、新しく生まれようとする「文化」を誤った道へと導く場合もあるのである。
『デザインの国イギリス―「用と美」の「モノ」づくり ウェッジウッドとモリスの系譜』(山田 真実著,創元社,1997年,83-84頁)

「文明の進歩が、文化の発展になるとは限らない」という発想は、世界共通の認識としてあるということなのでしょう。

この本で述べられているような吹屋ベンガラの過去の栄光や品質に憧れるだけでは、「吹屋ベンガラの破綻の事実」が未来に活かされることはありません。明日へ向けた選択を誤らない「鍵」は、必ず歴史や文化の中にあり、だからこそ私たちは歴史と文化を学び、新しい「歴史認識」を持たなければならない、と臼井氏は主張します。

私にとっては、曾祖母の生業を知るうえで非常に参考になるものでしたが、それだけでなく、「見えないものの大切さ」そして「歴史や文化を学んで未来に活かす」ことの重要性を教えてくれる書籍でした。

ただし2点、この本で残念な部分があります。
まずは、陶磁史に関する表記が一部事実と異なると思われる点。

たとえば

世界にその美しさを轟かせた伊万里焼(有田)焼に施された赤絵付け顔料は、実はほとんどすべてといってよいほど岡山の吹屋ベンガラであった
(4頁)

という表記がありましたが、吹屋ベンガラが製造されたのは1707年で、そこから安定供給され始めたのは1751年ごろ。

しかし『海を渡った古伊万里 セラミックロード』(大橋康二監修,青幻舎,2011年)によると、東インド会社を経由してヨーロッパへ日本磁器が本格的に輸出されるようになったのは1659年からで、マイセンのアウグスト強王が特に有田磁器を収集していたのは1715年頃の話。

また、1998年に日本で開催された「マリア・テレジア古伊万里コレクション展」の図録を見ても、古伊万里コレクターとしても知られるマリア・テレジアのコレクションは、主に1700年~1750年に作られたものが中心だったことがわかり、吹屋ベンガラが伊万里焼に対して「ほとんど全てといってよいほど使われていた」というのは、少し無理があるように思えます。
(個人的にはアウグスト強王をはじめとするヨーロッパの磁器病に憑りつかれた王侯貴族が、吹屋ベンガラを目にしていたという事実があってほしいものなのですが。。。)

またもう一点残念だったのは、参考文献の記載がなかったこと。
たとえば「世界で最も美しいといわれた吹屋ベンガラ」(3頁)、「世界一美しいといわれていたにも関わらず(150頁)」等、吹屋ベンガラが「世界一美しいといわれていた」という表現が度々見受けられますが、一体それがどこで言われていたのかの出典元がわからないことも、少し残念でした。

いずれにしても、私自身、自分のルーツともいえる吹屋ベンガラの歴史には引き続き興味関心があるため、もっと掘り下げていきたい分野だと改めて感じました。

【アミーゴの読書感想文】
7日目:『吹屋ベンガラ ―それは岡山文化のエッセンス―』(臼井洋輔著,日本文教出版,2016年)。

この記事を書いた人

加納亜美子

西洋磁器史研究家 / 料理研究家
「カリーニョ」代表。カリーニョを運営する三姉妹の末っ子。

幼少の頃から洋食器コレクターの父親の影響を受け、食器の持つバックストーリーに興味を持ち、文系塾講師、洋食器輸入会社で勤務後、2016年1月~会員制料理教室「一期会」、2019年1月~高級食器リングサービス「カリーニョ」の運営を始める。
曾祖母は赤絵付けの原料となるベンガラ作りに関わっていたルーツを持つ。