日本と西洋の「陶磁器」の違い(1)

こんにちは。カリーニョ代表の加納です。

8月の課題としていた「読書感想文チャレンジ」ですが、引き続きネタがつきるまで?「アミーゴの読書感想文」を続けていこうと思います。

前回のコラムはコチラ

「材料」の勉強不足を解消したくなった、きっかけ

現在、マミコが「やきものの材料」についての4コマ漫画を連載しています。

(文部科学省発行の高校の教科書『セラミック工業』が参考文献という、禁断の新章!)

私は化学が苦手ということを言い訳に、今回のテーマである「やきものの材料」の勉強を少し?避けてきました。。。なので、マミコの漫画がとても参考になっています。(拙著『あたらしい洋食器の教科書』で、義兄・玄馬脩一郎が「陶石はホットケーキミックスのようなオールインワン原料」(23頁)と表現したことにも、目から鱗がポロポロ落ちまくりました。)

そんな「材料についての勉強不足」を、いよいよ解消していかないといけないな、と思うきっかけがありました。

それが、洋食器の歴史に関する文献で度々みられる、ノリタケが「純白硬質磁器を完成させた」という歴史、そして「日本初のディナーセットを誕生させた」という歴史です。

「日本初のディナー・セット」の定義とは?

私は『あたらしい洋食器の教科書』で、ノリタケの歴史について「1914 年、念願の日本初純白ディナー・サーヴィス「セダン」が誕生します。」と表現しました。実際にノリタケ公式サイトでも「日本初のディナーセットを完成させたのは、10年後の大正3年(1914)のことでした。」と紹介しています。

しかし以前ご紹介した書籍のひとつ、『岩波講座 世界歴史22 産業と革新―資本主義の発展と変容』内の「模倣と着想 ―J・ウェッジウッド、森村市左衛門、もう一つの産業化」(87-107頁,鈴木良隆著,岩波書店,1998年)のなかで、こんな文章があったのです。(少し長いですが、以下引用)

”1894年のニューヨークからの純白生地の要求に対して、森村組では品質を改良するために在来の業者に任せず、自ら白色硬質磁器に関する研究に着手することにした。
(中略)

現実に純白硬質磁器が完成を見たのは1909年であり、ディナーセットに必要な8寸皿(※約25cm)ができたのは1914年のことであった。
(中略)

現実にこのように森村組では、西洋磁器の完成に、純白生地の研究を初めて20年、フランス製陶器のかたちを模倣してから30年を要した。

たしかにこれらはいずれも、市左衛門をはじめ森村組にとって初めてのことであった。そして森村の社史や市左衛門の伝記類を見ると、これらは森村組が初めて経験し、解決したかの強い印象を受ける。

しかしいずれもこれらは、日本で初めてのことではなかった。そしていずれも、それなりの解決がすでに与えられていたことがらであった。
”(97-98頁参照)

つまり、論文の著者である鈴木さんはノリタケ(当時は日本陶器)が「純白生地」と「洋皿の形状」を完成させたことは「日本で初めてのことではなかった」というのです。

文章はさらに続きます。

第一のかたちについては、有田の香蘭社は、すでに1876年のフィラデルフィア博にコーヒー碗を出品し、好評を得ていた。精磁会社も1880年にフレンチ形の洋食器の注文を受けており、1882年にはディナーセットやコーヒー碗を作ってアメリカに輸出していた。というよりは有田では18世紀から注文を受けて西洋風の茶器を作っていたとすべきであろう。
(中略)

第2の装飾についても、精磁会社は、アメリカから指定されたデザインに従って、あまり彩色を施さない画付けにより白磁製品を作っていた。

第3の純白生地については、1896年、名古屋の松村八次郎がフランス技術に基づいて純白硬質磁器の製造に着手し、「東焼」として完成させている。もちろん、有田では白磁を作っていた。

この文章を読む限りだと、西洋磁器に必要な「形状」も「純白硬質磁器」も、ノリタケよりも20年以上前に完成しているように思えます。

そこで、本文に登場した香蘭社や精磁会社、そして日本の磁器製造について調べてみることしました。主に参考にしたのは、以下の4冊です。

(1)『明治有田 超絶の美 万国博覧会の時代』(鈴田由紀夫監修、2016年)
(2)『幻の明治伊万里 悲劇の精磁会社』(蒲地孝典著、日本経済新聞社、2006年)
(3)『近代陶磁の至宝 オールド・ノリタケの歴史と背景』(井谷善恵著、里文出版、2009年)
(4)『陶器の思想』(加藤悦三著、日本陶業新聞社、2000年)

有田焼の窯元が、ノリタケより前にディナーセットを完成させていた?

それらによると、たとえば(1)では、「(精磁会社は)1882(明治15)年には宮内省より注文を受け、高級ディナーセットを含む、170種にも及ぶ製品群を完成させた。という記述がありました。

また、(2)では、「わが国で最初にできた本格的ディナーセット」という章で、実際に明治中期に作られた精磁会社製の直径24.5cm(8寸皿)の白磁に竹の色絵付けが施されたディナー皿を紹介していました。(132頁)

ノリタケは、「8寸のディナー皿の製造に成功したことで、ディナーセットが完成した」としていますが、精磁会社はそれよりも前に、8寸のディナー皿を製造しているのです。

では、いったい、ノリタケが言う「日本初のディナーセット」とは、何を意味しているのでしょうか。

この件について、実姉・玄馬絵美子の意見も聞きながら、ノリタケは、「【現存する】日本初の【純白】硬質磁器の【フル】ディナーセットを【量産品として】初めて作ったメーカー」ということなのかな、という結論に至っていました。(※精磁会社は1898年に廃業している)

「西洋磁器の模倣」と「日本で西洋磁器を作ること」は違う

しかし、もう少し詳しく文献を掘り下げていく中で、日本各地の窯元がてがけた「西洋磁器を模倣した日本製の食器」と、ノリタケや大倉陶園が製作した「日本製の西洋(風)磁器」には違いがあり、この違いが、「日本初のディナーセット」という言葉に関係していると認識したのです。

この2つのキーワードは、先に紹介した鈴木さんの論文内で見られる言葉です。

もとを言えば純白硬質磁器は東洋から渡ったものであるという事実を、市左衛門らは知っていたのであろうか。
(中略)

しかし仮に知っていたとしても、それは市左衛門らにとっての解決にならなかったのであろう。やがてノリタケから出される製品の水準は、既存の製品をはるかにしのぐものであったからである。

西洋磁器を模倣するということと、優れた西洋風製品を作るということとは、自ずと別のことがらであった。

鈴木さんの意図する「西洋磁器の模倣」と「西洋風製品」の違いについて、私なりに調べてみました。

ここで重要になってくるのが、やはり「形状」と「白磁の色」。そして、「材料」です。
手掛かりになったのは、(3)(4)の2冊。(どちらも、参考文献として紹介するには物足らないくらいに良書のため、また改めて読書感想文を残しておきます)

見た目は丸くても、「真円」ではなかった日本製の洋皿

まず(3)では、ノリタケの手掛けたディナーセットの「形状」について、以下のような記述がありました。

最初のディナー皿が完成すると、翌大正3(1914)年に日本陶器(※ノリタケの前身)において最初のディナーセットが輸出された。

ところが、それ以前に書かれた森村組輸出送状にすでに、それ以上の大きさの、たとえば5枚の直径1尺2寸(36.36cm)の皿が掲載されている。

しかし、これらは厳密にいえば、真円ではないことが送状の絵から推測できる。それらは楕円や四角の角が削られたもの、あるいは円形の縁に花の花弁を継ぎ足したりして大きくしたものであった。
(中略)

もちろん、それまでにも有田では直径が1尺位の皿を作ることは可能であったし、17世紀にはヨーロッパに向けて輸出もしている。

8寸皿(※直径約25cm)のディナー皿の生産に成功したというのは、つまり輸出相手国であるアメリカの取引先が満足するような白くて丈夫な皿を作ることができ、かつそれらを販売して商業的に採算が取れることが可能になったことを意味する。(120-121頁)

つまり、井谷さんの意見では、ノリタケの前身である日本陶器がディナーセットを完成させる以前は、

・真円(しんえん。歪みがなく、完全な円のこと)ではなかった
・「アメリカで通用する」純白ではなかった

(※先述のとおり、確かに1896年に松村八次郎が純白硬質磁器を製造していますが、この「純白」もアメリカで通用するような純白ではなかった?もう少し調べてみます)
・商業的に採算がとれる製品ではなかった

(※ちなみに日本陶器の場合、1911年までは赤字を続けていたものの、並行して森村組の輸出事業が高い収益を得ていたので、純白硬質磁器の研究を続けることができた。)

ちなみに(2)では、「有田焼の窯元目線」での洋皿について、「(明治期の)有田焼が、わが国における洋食器開発の黎明期を迎えたのである」としたうえで、やはり洋皿の成形の難しさを伝えています。

”リム付きのフラットな洋食皿はサイズが大きくなればなるほど歪みやすく、実用品として薄く、軽く製作しなければならないので困難を極めた。

精円の皿も必需品で、注文に応じるには手を焼いた。”(56頁)

”輸出業者にとって、洋食皿の製造は永年の懸案になるものであるが、底をフラットにするために高台裏に支え(ハリ積み)をしたり、高台を二重にすることによって、皿の中心部分の凹みを防いだ。

しかしながら、それでは目跡が残るし、重くもなり、あまりスマートな仕上がりではなかった。

大正初期にフラットな10インチ(※約25cm)皿がほぼ欧州の規格を満たすまで試行錯誤が続いた。

日本における洋食器の揺籃時代を有田が苦心惨憺して開発してきたにもかかわらず、結実することはなかった”(62頁)

では、なぜこんなにも真円を作ることが難しかったのでしょうか。そして、なぜ欧米が望むような純白の磁器にならなかったのでしょうか。そのカギが「材料」なのです。

泉山の原料にこだわったために、実現しなかった西洋磁器

そもそも磁器とは、白くて薄くてかたく焼きしまった焼き物です。日本では約400年前に佐賀県の有田町にある泉山で磁器製造に必要な陶石(泉山磁石)が発見されたことで、初めて焼かれるようになりました。

しかし伝統的な日本の磁器は、「白色」といっても、青みや灰色をおびえているのが特徴だったのです。それがヨーロッパで作られている磁器の場合は、純白である点で先行していました。

(3)でも、泉山の陶石の性質が、西洋(風)磁器の製造に不向きだったことを指摘しています。

”泉山だけの陶土では可塑性がなく、底が水平にならないで落ちる習性や、硫化鉄を多く含んでいるので鉄分が黒子(ほくろ)のように出てしまい、地肌も元来が灰青色である。欧州の陶業地のような純白で生地の側面がフラットな洋食器と対抗するには容易ではなかった。

当分は異国情緒を醸し出す多彩で過密な意匠で対抗するより他なかったのかもしれない。

泉山の原料を用いた生地は、装飾美を追求するキャンバスとしては味わい深いものであったが、日用品、とりわけ海外の市場で洋食器として販売を展開するには不向きであった。

以降、泉山の原料にこだわりながらも、それを補って余りある、意匠に優れた製品を生み出していこうという気運に効果的に働いたのではないだろうか。”(56頁)

「ヨーロッパには、陶石がない」!?

泉山の陶石が「西洋風の磁器」には不向きだということが分かったとき、たまたま(4)の本と出合いました。

著者の加藤悦三さんは「比較陶器」という学問を確立し、ヨーロッパと日本の『陶器工芸比較論』によって、日本の陶器の良さや神髄などを55年に及び研究し続けてきた方です。(すでに閉鎖されていますが、中京短期大学内に「比較陶器研究所」という、古今東西の陶器の工芸を記述して比較検討する研究室を設立されていたそうです。そんな興味深い研究室があったなんて、知らなかった……)

そんな加藤さんが著書『陶器の思想』で、私にとってかなりの衝撃的な言葉を発していたのです。

それがこちら。

”ヨーロッパには陶石はない。従って陶石は使われていない”(269頁)

えー-、どういうこと!?

ますます、私の「材料の勉強不足」を見直さなければならなくなりました。

加藤さんはこの文章に続いて、

・日本では、磁器の調合の基本が「陶石―粘土系」
・ヨーロッパの磁器では、「カオリン―長石―珪石系」

と紹介しています。

この「磁器の調合の基本」を見たとき、過去にヨーロッパの窯元や、大倉陶園の工場視察で目にした「カオリン」「長石」「珪石」の展示を思い出しました。

(ウィーンのアウガルテンで見た原料)
(大倉陶園の主原料)

ヨーロッパでつくられる磁器の場合、このカオリンを中心に長石と珪石を調合したものを生地の原料=陶石としています。

一方、有田を訪問した時に九州陶磁文化館でみた陶石は、文字通り「石」でした。

(九州陶磁文化館で展示されていた有田町の泉山磁石場で採れた陶石)

この泉山磁石は、これ単体で磁器が作れるのです。大正以降の現在は、有田焼の原料には熊本県の天草産が99%使われていますが、天草陶石も同様の性質、つまり配合不要の「天草陶石だけ」で磁器が作れるのです。

佐賀県陶磁器工業協同組合によると、「他の土や原料を配合せずに単独の陶石だけで磁器が造れるのは泉山陶石と天草陶石のみと云われ、世界的にも例を見ない高品質で貴重な磁石と評価されています。」とのことです。)

冒頭で、義兄・玄馬が「陶石はホットケーキミックスのようなオールインワン原料」と表現したことを紹介しました。この「調合によってつくられた陶石」は、あくまでも「西洋風の磁器(洋食器)の製作における陶石」のこと。

日本製の磁器は、文字通り「石もの」なのです。おそらく、これが加藤さんの言う「ヨーロッパには陶石はない。従って陶石は使われていない」の意味なのかなと。。。そう解釈しています。(もし違う場合は、ご指摘いただけると助かります。)

この「陶石の違い」について鑑みたうえで、改めて(2)を読み返したとき、有田の精磁会社の場合、ヨーロッパの最新機械を導入したのに、それでも「完璧な洋食器」が作れなかったのは、泉山の陶土にこだわったからだ、という記述を見つけました。

”精磁会社は、製陶機械導入後も泉山の陶土にこだわり、高台底に支えをした「針積み」が依然として続けられ、目跡(めあと)が残る体制は変わらなかった。後年、松尾儀助が現業を離れてから、泉山の石にこだわって完璧な洋食器が生産されなかったことを指摘している。”(154頁)

ここまできて、ようやくノリタケが完成させた「日本初の純白硬質磁器のディナーセット」について、答えが見えてきました。

ノリタケは、「日本の陶石」に固執せず、ヨーロッパの窯元を視察し、原料の調合や焼成方法をしたことで、西洋風磁器に近づいたのです。さらに皿の中心部のつくりが、日本でつくられていたものを異なっていたことを発見し、その結果、完全に平らで真円のプレート作りを確立することができたのです。

お恥ずかしながら、まだ1896年に松村八次郎が製造した「純白硬質磁器」のことが調べきれていませんが、もしかすると彼の純白硬質磁器も、日本磁器につかわれる陶石が使われていたから、欧米基準の「純白」をクリアできなかったのでしょうか。。。このあたりは、また調べる時間ができたときにまとめてみようと思います。

いずれにしても、改めてノリタケが「日本における洋食器のパイオニア」であること、そしていかに日本国内で西洋風磁器を製造することが困難だったのかということを感じました。

「陶磁器の用語」を学ぶ必要性

今回、「日本初の純白硬質磁器のディナーセット」について調べているうちに、材料についての知識を深める必要性を強く感じました。

(1)に掲載されていた明治時代につくられた香蘭社のカップを見て、「これはどう見たって純白の硬質磁器なのでは?」と感じていました。それで、実際に書籍で紹介されていた「ブラック・ホーソン」写しを運よく入手することができ、実物をじっくり鑑賞しました。

(1875-80年代のオールド香蘭社「ブラック・ホーソン」写し)

たしかに現行品やノリタケや大倉陶園のカップに比べて、白磁が灰青色を帯びています。でも、写真ではあまり伝わらない?(むしろ私が「これはどう見たって純白では?」と思えてしまう気持ちも伝わったら嬉しいです。やっぱり実物をみることは大事だなと。。。)

磁器の材料について色々と調べてみて、では現在の日本の窯元で作られている洋食器は、いまも「日本でいう陶石」をつかっているのかどうかなど、まだまだ調べてみたいことが新しくでてきました。

そして見直す必要があるのは、材料の知識だけはなく、そもそも日本とヨーロッパで使われている「用語の違い」についてもだ、と感じました。

ちなみに(4)の著者である加藤悦三さんは、55年以上にも及ぶ陶器の研究のなかで、「陶器の用語」も長い間ずっと抱いてきた関心事だったそうです。そして「陶磁器分類考」と題した小論を発表した際、現在日本で使われている陶磁器の分類に対してこう述べています。

わが国で用いられている陶器の分類法は大変杜撰(ずさん)で、それによっては、日本の陶器をまともに論ずることができない、(中略)

その分類法は、ヨーロッパの陶器、すなわちわが国の陶器と著しく違った文化的、自然的条件の下で発展した陶器のために作られた分類システムであり、わが国の陶器にそのまま流用しようとしたことに無理があった。(中略)

(この)土器、陶器、炻器、磁器の4項目に分類する方法が不満なのは、それはヨーロッパからの借り物であって、日本の陶器の思想に合わないからだ”(序より)

実は、この陶磁器の分類については、私自身も西洋軸と日本軸で合致する場合とそうでない場合があるように思えていました。それをはっきりと「4項目の分類に不満がある」と述べている文章に出合って、なんとなく気持ちが晴れたような感覚がありました。

長文になってきたので、次回、加藤さんの著書の読書感想文に続きます。
(つづく)

この記事を書いた人

加納亜美子

西洋磁器史研究家 / 料理研究家
「カリーニョ」代表。カリーニョを運営する三姉妹の末っ子。

幼少の頃から洋食器コレクターの父親の影響を受け、食器の持つバックストーリーに興味を持ち、文系塾講師、洋食器輸入会社で勤務後、2016年1月~会員制料理教室「一期会」、2019年1月~高級食器リングサービス「カリーニョ」の運営を始める。
曾祖母は赤絵付けの原料となるベンガラ作りに関わっていたルーツを持つ。