文化の違いで知る、「和食器と洋食器の違い」

こんにちは。カリーニョ代表の加納です。

インプット期間が終わり、ようやくアウトプット熱が再燃しています(8月がもう終わるのに……)。今日は2日連続での読書感想文です。

前回のコラムはコチラ

今回も、新しい話題です。

私は西洋陶磁史研究家を自称していますが、西洋の陶磁史を学ぶうちに、日本の陶磁史を知ることの必要性も感じて、いま日本の陶磁器について色々と勉強しています。

そんななか、「和食器と洋食器、そもそも何が違うのか」ということを考えているときに出合ったのが、今日ご紹介する『浅野陽の食と器と日本人』です。

ここ最近読んだ中でも「良書of良書」すぎて、読了後の感動が非常に心地良いものでした。自分のなかで感じてきた疑問や日本の食文化の美学などが理解でき、正直ヒミツにしておきたいくらいの書籍。。。ですが、やはりアウトプットが何よりの自分の知識の定着になると信じて、読書感想文を記録しておきます。

浅野陽さんとは?どんな趣旨の本?

この本の著者は、陶芸家で東京芸術大学名誉教授の故・浅野陽さん(1923-1997)。書籍が出版されたのは1997年ですが、出版を待たずして残念ながら他界され、この本が浅野さんにとって最後の著書となりました。

そんな浅野さんが日本の食文化に対して、歳月をかけて考えてきたこと、見たこと、経験したことを集約させた本書は、こんな「まえがき」から始まります。

”私は、陶器を作ることを生業(なりわい)としています。そして、おいしいものを食べることが何よりも好きです。(中略)

世の中には、おいしい食べ物の本が、すでにたくさん出版されています。今さら私が本を出さなくてもいいのでは、とも思いました。

しかし、どこの本でも触れていないことが、一つあります。それは、なぜ、私たち日本人が日本食と日本の器にこだわるのか?なぜ、これらを守っていかなければならないのか、という日本人としての根源の部分です。

また、これが陶器を作る上での私の根源でもあります。”(まえがきより引用)

私たち日本人は(世界的に類を見ないくらいに)、なぜこんなにも、うつわが好きなのか。うつわにこだわるのか――。

そんな、素朴だけれども日本人としての根源の部分を、日本という国、日本の地理的な位置、そして歴史を振り返ったうえで、優しい口語体で浅野さんが教えてくださっています。

どの章も非常に興味深い内容ですが、ここでは私が一番「こういうことが知りたかった」と感じた、第2章「農耕民族の器、騎馬民族の器」をご紹介しようと思います。

農耕民族の器「和食器」と、騎馬民族の器「洋食器」

一般的に、「和食器と洋食器の違い」として、「和食器は、手で持つ。お箸を使う。陶器が多い」「洋食器は、テーブルの上で使う。カトラリー(ナイフやフォーク)を使う。磁器が多い」ということが言われています。

では、なぜそういう違いが生まれたのでしょうか?

まずヨーロッパ(ユーラシア大陸)は、もともと騎馬民族の国。つまり、狩猟を糧にし、獲物を求めて馬に乗って移動する民族です。あるいは、遊牧しながら周期的に移動する遊牧民で、いずれにしても頻繁に移動を繰り返しています。

そうなってくると、食器は必然的に「割れないこと」が条件として出てきます。そこで誕生したのが、金属器です。さらに、移動するなら、全てを重ねて結わえる必要があります。そうなると、平たなものが一番便利となります。

つまり、現在の西洋の食器は、「重ねやすく、腰にぶら下げやすい金属器」がもとになって、発達したものになります。

また大陸では、オアシスから水を汲んでくることから一日が始まります。そのため、「運ぶ」動作を容易にするために、ハンドル(取っ手)のある器が生まれました。

一方で、日本はどうでしょう。
日本の場合、水が豊かで、家のすぐそばに小川が流れていたりしたので、取っ手のある器は必要なかったのです。(取っ手については、東西文化の「価値観の違い」から解説する以下のコラムもおすすめ)

また、日本人は定住生活型の農耕民族。田んぼを耕して収穫を待つ民族なので、「壊れないで持ち運びに便利」ということは二の次でよかったのです。

そんな合理主義よりも、日本人は土を素材にした陶器で多様な形の器を作り、日本の風土や食材を思いきり楽しむという姿勢を大切にしてきました。

「畳に座って食べる」か「椅子に腰かけて食べる」かで、器も変わる

さらに日本人は、古来より家の中に床を張らずに、地面のままの土間を作って生活し、奈良時代になって漢民族から床や座卓が伝えられても、座る生活は残りました。つまり「床に座って、食器を手に持って食べる」というスタイルが出来上がっていったのです。

椅子に座って食事をするヨーロッパと、床に座って食事をする日本。ここでも器の形に違いが出てきます。「目線」が違うからです。

日本の食卓では、目線が下向きのところに食べ物があります。つまり、器を上から見ることになります。一方のヨーロッパは目線がもう少し横からになります。

日本では「鉢」という深さのある器や、「蓋物(ふたもの)」の器が発達していきますが、これは「上から見る」ということと関わっている、と浅野さんは述べます。(確かに、ヨーロッパのテーブルだと、器の縁が高いと中のお料理が見えにくいですよね)

漆の箸、金属のスプーン

興味深かったのは、「東西の出汁の違いで見る、箸やカトラリーの材質」についてのお話です。

日本料理の場合、出汁(だし)といえば、昆布や鰹節。鰹は魚なので脂はありますが、鰹節にするために蒸したりいぶしたり乾燥させたりと、脂気を極力消しています。

一方の大陸側では、動物の骨や筋など、肉として食べられない部位を利用してとった出汁を使います。

つまり、日本料理は水炊きスープ、大陸では脂炊きのスープが基本。この違いが、食器のほうにも作用しているというのです。

たとえば大陸では金属のスプーンやフォークを口に入れますが、日本料理では金属を口に入れるということが、まずありません。

金属は、口に入れるとイオン化現象が生じて、金気の味がします(※金は化合しないので例外)。しかし、脂炊きの大陸側の料理は、スプーンやフォークに脂の膜がはるので、食べても金気をほとんど感じないのです。

しかし日本料理の基本は、水溶液。金属で食べると金気がさわって、まずくて食べられない。木や竹や漆の箸が生まれたのは当然だ、と浅野さんは言います。(この話を読んで、以前ニッコーに工場視察に行った際にプレゼントしていただいた白磁器製のスプーンに対して、担当者の方が「白磁のスプーンは、お料理の味が分かりやすくて、とてもおすすめ」と言われていたのを思い出しました)

風土や豊かな食材を楽しむ、日本のうつわ

まだまだ紹介したいお話はあるのですが、とりあえずここまでにしておきます。

日本は、「世界中で、これほど多様な食器を日常で使用する国はない」と言われることがあります。確かにヨーロッパの食器は、サイズがある程度決まった丸皿が中心で、単調だと思います。

ではなぜ、こんなにも日本の食器は多様なのか。それは、浅野さんの言葉を借りると「合理主義よりも、日本人は豊かな日本の食材を思いきり楽しむという姿勢のほうを、大切にしてきた」からこそなのだと感じました。

夏にはスズキがおいしいし、冬にはタイがおいしい。もちろん魚の大きさは違うので、使う器の大きさも変わる。
煮て食べるか、焼いて食べるかでも、器の形も変わってくる。

昨日、わたしは鮎を食べましたが、鮎ひとつをとっても、稚鮎から大きく成長した落ち鮎まで楽しめて、鮎を味わうにしても、さまざまな形の器を使うことができる――、それが、日本の食文化。

和食器と洋食器の違いは、民族性や地理的環境、文化、価値観などさまざまな観点から見出すことができるのだと、改めて実感しました。

そして自分なりの「和食器と洋食器のちがい」について、頭の中の整理をしている最中ですが、もう少し色々な著者の本を読みながら、和食器と洋食器のことを知っていこうと思う、良いきっかけとなる書籍でした。

2022年アミーゴの読書感想文
1冊目:『森村市左衛門の無欲の生涯』(砂川幸雄著,1998年)
2冊目:『ウェッジウッド物語』(日経BP社,2000年)
3冊目:『岩波講座 世界歴史22 産業と革新―資本主義の発展と変容』内の「模倣と着想 ―J・ウェッジウッド、森村市左衛門、もう一つの産業化」(87-107頁,鈴木良隆著,岩波書店,1998年)
4冊目:『現代語訳 西国立志編 スマイルズの自助論』(S・スマイルズ著,中村正直訳,金谷俊一郎現代語訳,PHP研究書,1996年)

※1冊目~4冊目 前編「まえがき」 後編「本題」
5冊目:『描かれた器: 絵画と文学のヨーロッパ陶磁』(大平 雅巳著,平凡社,2021年)
6冊目:『浅野陽の食と器と日本人』(浅野陽著、群羊社、1997年)

この記事を書いた人

加納亜美子

西洋磁器史研究家 / 料理研究家
「カリーニョ」代表。カリーニョを運営する三姉妹の末っ子。

幼少の頃から洋食器コレクターの父親の影響を受け、食器の持つバックストーリーに興味を持ち、文系塾講師、洋食器輸入会社で勤務後、2016年1月~会員制料理教室「一期会」、2019年1月~高級食器リングサービス「カリーニョ」の運営を始める。
曾祖母は赤絵付けの原料となるベンガラ作りに関わっていたルーツを持つ。