講座レポ「ハプスブルク家と名画・陶磁器の世界」新しい時代へ~新しい芸術の誕生 ウィーン分離派~でした。

こんにちは
カリーニョスタッフのTomokoです。

2/4(木)近鉄文化サロンで今年2回目の講座が開催されました。
午前は初心者のための洋食器講座イギリス陶磁器編第5回[ミントン]、午後は【ハプスブルグ家と名画・陶磁器の世界】新しい時代へ~新しい芸術の誕生 ウィーン分離派~でした。

前回の講座では、エリザベート側から見たハプスブルク家のお話でしたが、今回はその夫であるフランツ・ヨーゼフ1世から見たお話になります。

ウィーン体制って?

ウィーン体制とは、ナポレオン戦争後にウィーン会議(1814~1815)が行われ、フランス革命前の絶対王政に戻し(王政復古)、それを維持しようとした保守反動体制を言います。この会議ではハプスブルグ家の代わりにメッテルニヒというオーストリア人が議長を務めました。

ウィーン体制をきっかけに誕生した【ビーダーマイヤー様式】は、華美な装飾よりも実用性を重視し、その中での美しさや芸術性を大切にするスタイル(様式)です。人々が楽しむ文化を作り、政治に興味を持たせないようにするメッテルニヒの高度に政治的な策略だったと言われています。

順調に進んでいたウィーン体制でしたが、1848年に各地で起こった革命で崩壊します。オーストリアでは、メッテルニヒは海外へ逃亡、革命後フェルディナント1世が退位し、フランツ・ヨーゼフ1世が18歳の若さで即位することになります。

フランツ・ヨーゼフ1世はウィーン市街にリングシュトラーゼ(環状道路)を行いましたが、その沿道には国会議事堂(ネオ・ギリシャ)、市庁舎(ネオ・ゴシック)、美術史美術館(ネオ・ルネサンス)など過去の様式のリバイバル(ネオ)建築ばかりでした。それは保守的なハプスブルグ帝国を反映しており、啓蒙主義が根付き始めていたウィーンでは、歴史主義から分離し、今の時代にあった芸術を生み出そうとするウィーン分離派(ゼツェッシオン)が結成されることになります。

オスマン帝国からの包囲戦に耐えたウィーンを囲む城壁を撤廃し環状道路に変えたリングシュトラーゼ

ウィーン分離派とは?

1897年にウィーンで画家グスタフ・クリムトを中心に結成された新進芸術家のグループを言い、「性の本能(エロス)」と「死の本能(タナトス)」の融合を表す世紀末芸術を生み出しました。それはまさしくクリムトが描いた世界感だと亜美子先生は言います。

さらにクリムトの弟子エゴン・シーレの作品やエピソードが紹介され、これまでの講座で観てきた絵画とは違う生々しいエロティシズムの表現と強烈な個性に驚きます(彼の壮絶な人生にも驚いたのですが…)。

ウィーン工房

1903年ウィーン分離派の主要メンバーだったヨーゼフ・ホフマンとコロモン・モーザーを中心に分離派のスタイルを受け継ぎ、さらに発展させるためのウィーン工房が設立されます。建築家でありデザイナーでもあったヨーゼフ・ホフマンが考える総合芸術は、装飾、家具、食器までに及び、食器のパートナーとしてアウガルテン、グラスのパートナーとしてロブマイヤーに依頼し作品を作りました。

ハプスブルグ家御用達であったロブマイヤーに依頼されたホフマンデザインのグラスやシャンデリアは今を生きる私たちが見てもなぜだか新しく感じ、現代の暮らしにあった工芸品であったことがわかります。

ホフマンのデザインしたホフマンブラック(中央のグラス)や、メロン(右)

1918年2月にクリムト、10月にエゴン・シーレもスペイン風邪で死去し、この年の秋にハプスブルグ家最後の統治者であるカール1世が国外逃亡します。この時をもって、650年間という長きに渡りオーストリアに君臨したハプスブルグ帝国は崩壊しました。

次回【ハプスブルク家と名画・陶磁器の世界】は、いよいよ最終回、時のテーブルウェア~各時代のうつわ・ガラス~です。
ご興味のある方はぜひ!!

募集内容はこちらをご覧ください

【新講座】ハプスブルク家と名画・陶磁器の世界(近鉄文化サロン阿倍野)

皆さまのご参加をお待ちしております。申し込みは、近鉄文化サロンで受付しています。
ご不明な点がございましたら、カリーニョにもお気軽にお問い合わせくださいね。

\ 関連記事はコチラ /

洋食器講座(近鉄文化サロン)でのようす

この記事を書いた人

編集部

編集部

カリーニョ編集部による記事です