メトロポリタン美術館の創設にも影響を与えた!ロンドン・ナショナル・ギャラリーの成り立ち

現在、大阪・中之島にある国立国際美術館で、ロンドン・ナショナル・ギャラリー展が開催されています。

前回のコラムで、ヨーロッパにある有名美術館の多くが「王侯貴族のコレクションが、国民に一般公開される」という起源をもつものが多いなかで、ロンドン・ナショナル・ギャラリーは、「市民の所蔵品が、一般公開される」形で設立されたということをご紹介しました。

今回はロンドン・ナショナル・ギャラリーの成り立ちをもう少し詳しく見ていきます。

19世紀初頭「世界の工場」となったイギリスのアート事情

ロンドン・ナショナル・ギャラリーが設立されたのは、約200年前の1824年。フランスでは1793年にルーヴル美術館、スペインでは1819年にプラド美術館が開館するなか、そのスタートは決して早いものではありませんでした。

産業革命期のイギリス(画像出典:HISTRACE)

他国が次々に国立の美術館を開設するなか、19世紀初頭のイギリスは、世界に先駆けて産業革命を成し遂げ「世界の工場」として大工業国となっていました。

しかし、輝かしい繁栄を謳歌している一方で、他のヨーロッパ諸国と競い合えるような、「国家が支援する美術館」が存在していませんでした。ロンドン・ナショナル・ギャラリーが設立されるまでのイギリスは、絵画の多くが個人の所有であり、公衆の目からは離れた場所にあり、美術作品の収集が、裕福なエリート層の領分にとどまっていたのです。

彼らはグランドツアーに赴き、イタリアを中心とした国々で古代の遺物を含む美術作品を自国に持ち帰り、広大なカントリー・ハウスを満たしていきます。

特に人気だったのが、クロード・ロランやカナレット、ザルバトール・ローザの絵画。これらは今回のロンドン・ナショナル・ギャラリー展でも「グランドツアー」や「ピクチャレスク」の章で見ることができます。

今回の展覧会で見ることのできるカナレット作『大運河でのレガッタ』(1732年)
グランドツアーの流れは、陶磁器de読書会「ジキル博士とハイド氏」で詳しく解説しています。

きっかけは、ナポレオン戦争?

19世紀に入った矢先、ナポレオンがヨーロッパ大陸全土で戦争を引き起こします。

ナポレオン戦争(画像出典:Wikipedia

この戦争でナポレオン軍はイタリアに対し、法外な租税要求をします。困ったローマやフィレンツェに住む貴族や富裕層たちは、所有している絵画を仕方なく売却し、税金の支払いに充てることになりました。

そんな彼らが売却した絵画を、イタリア各地で機会をうかがっていたイギリス人画商たちが買い取り、ロンドンに持ち帰っていたのです。(なかには「ナポレオンに絵画を略奪されるくらいなら、売却したほうがまだマシ」という考えで、イギリス人画商に売却していた貴族もいたのだとか。)

その結果、イギリスの美術市場に美術作品の数々が流入されていき、ロンドンは、ヨーロッパの美術市場の中心地として、パリやアムステルダムをしのぐ存在となり、多くの人々に1級品の絵画と出会う機会を与えました。

知的職業階級、特に銀行家や商人たちが絵画に投資を始めたのは、この頃からだと言われています。

「個人が所有する作品を、公共の場に開放しよう」という風潮

さて、イギリス国内で「個人が所有する作品を、公共の場に開放しよう」という流れが高まりをみせたのは、フランス革命中の1793年に、ルーヴル美術館が「フランス美術館」として開館したことが、強く影響していました。イギリスの美術愛好家たちには、敵対関係にあったフランスを超えたい!という想いが強くあったのですね。

同時に、フランスの若い画家たちがルーヴル美術館で行っているような「ルネサンス期からバロック期の画家たち(オールドマスターズ)の作品の模倣」が、画家たちにとって大事な美術教育だと感じ、イギリスのロイヤル・アカデミーも動き出します。

そうして美術愛好家やコレクター、ロイヤル・アカデミーが「イギリスの美術育成のために、広く美術に触れることができる環境(美術館)が必要だ!」と、議会をも巻き込んで、国立美術館の設立に尽力しました。

アンガースタインのコレクションが始まり

ちょうどその頃タイミングよく、イギリスがオーストリアに貸し付けていた軍資金が返済される幸運に恵まれます。イギリス政府はこのお金を使い、1823年にこの世を去った銀行家アンガースタインの38点のコレクションと、彼の邸宅を買い取り、その邸宅を初代のナショナルギャラリーとして開設。1824年のことでした。

銀行家ジョン・ジュリアス・アンガースタイン(画像出典:Wikipedia)
アンガースタインの邸宅に設立された初代ナショナルギャラリー。(画像出典:Wikipedia)

初代館長のチャールズ・ロック・イーストレイクは「西洋絵画史を網羅するコレクションを作る」という目標を掲げ、特に14世紀~16世紀初頭のイタリア絵画を収集しました。ロンドン・ナショナル・ギャラリーが「西洋絵画の教科書」と謳われる理由が、ここにあります。

西洋絵画史を網羅するための「教育施設」として誕生したという歴史的側面は、入場料が無料という点からもうかがうことができます。

その後も作品の寄贈や購入は進み、手狭になった美術館は設立からわずか14年後には、トラファルガー広場に新設されたギャラリーに移転。ヨーロッパ屈指の大美術館となったのです。

王室のコレクションではなく、市民の有志による美術館設立の姿勢は、王家の存在しないアメリカのメトロポリタン美術館やボストン美術館への創設へと繋がり、引き継がれていきました。

ナショナルギャラリーの学芸員が語る「大切なこと」

さて、2014年にフレデリック・ワイズマンがロンドン・ナショナル・ギャラリーを3か月にわたって取材して完成したドキュメンタリー映画「ナショナルギャラリー 英国の至宝」が放映されました。

約3時間の映画の中で、印象的だったのは、学芸員の方が語る「大切なこと」。
それは、ロンドン・ナショナル・ギャラリーが、奴隷船の繁栄に基づいて、コレクションが成立したという事実です。

先述のとおり、ロンドン・ナショナル・ギャラリーはアンガースタインのコレクションからスタートしました。

今回の展覧会の図録で、アンガースタインはこう解説されています。

ロンドンの金融街で活躍した銀行家。保険組合ロイズの発展に貢献するなど輝かしいキャリアを築き、その収入の多くを慈善事業に使った。彼は画家の友人を持ち、助言を受けながら1790年頃から作品収集を始めている。
集められた作品38点は死後、国家に買い上げられ、ナショナルギャラリー創立時のコレクションの母体となった。

参考文献:『ロンドン・ナショナル・ギャラリー展』図録

この文中に出てくる「ロイズ」は現存する保険組合で、奴隷船の保険を引き受け、それにより莫大な利益を得た過去を持ちます。

今年(2020年)6月、黒人男性ジョージ・フロイドさんが白人警官に暴行され死亡した事件の際には、ロイズは事件の起きた数日後に、奴隷貿易における「恥ずべき役割」について謝罪しました。今もなおイギリスは、自国の保険会社が奴隷貿易で担った過去に向き合っているのです。

黒人差別に抗議するデモ参加者

「ナショナルギャラリー 英国の至宝」の映画の中で、学芸員の方はこう語ります。

さて、大事な点ですが、ここ(ロンドン・ナショナル・ギャラリー)のコレクションの成立は、奴隷制に基づいています

この中核を収集したアンガースタインは、奴隷船の保険を引き受けるロイズの一員でした。

この事実を分かっていることが、非常に大切です。
テートギャラリーにせよ、大英博物館にせよ、大規模な組織の多くが同様です。

このような過去を忘れずにいること。
そして理解することが大切です。

また、英国の果たした恥ずべき歴史も、忘れてはなりません。

映画「ナショナルギャラリー 英国の至宝」より(2017年)

今年に入り、私自身が英国陶磁器に関して学んでいく機会に恵まれながら、美しい陶磁器の裏には、イギリスにおける児童労働者の存在があったこと、また、奴隷貿易の廃止を求めて活動していたウェッジウッドの創業者の歴史を知りました。

アンガースタインは、奴隷船の保険会社から得た利益の大半を、イギリスの慈善活動に費やしました。ウェッジウッドが奴隷解放運動に関わる一方で、ウェッジウッド製の陶磁器の輸出で利用するリバプールの港は、奴隷貿易で栄えていた港でした。

クロード・ロランの「海港」は、アンガースタインのコレクション。

美しい美術工芸品、輝かしい歴史、そして慈善活動にさえ、良い部分だけではなく、さまざまな側面がある――。この映画の学芸員さんの言葉で、改めてハッと気づかされました。

ロンドン・ナショナル・ギャラリーは、海外に所蔵品を貸し出さないことで有名な美術館です。
映画の中で学芸員の方が言われていたとおり、所蔵作品そのものを楽しむのはもちろんのこと、作品群を通して、「そもそもなぜ、これらの作品がナショナルギャラリーに所蔵されているのか」というところまで掘り下げてみるのも、大切なことなのかもしれません。

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この記事を書いた人

加納亜美子

西洋磁器史研究家 / 料理研究家
「カリーニョ」代表。カリーニョを運営する三姉妹の末っ子。

幼少の頃から洋食器コレクターの父親の影響を受け、食器の持つバックストーリーに興味を持ち、文系塾講師、洋食器輸入会社で勤務後、2016年1月~会員制料理教室「一期会」、2019年1月~高級食器リングサービス「カリーニョ」の運営を始める。
曾祖母は赤絵付けの原料となるベンガラ作りに関わっていたルーツを持つ。