「啓蒙主義」とは?―啓蒙主義思想を通して知る、マリア・テレジアの偉業

陶磁器を通して歴史を学んでいくと、受験で頻出する偉人の、知られざる側面に気づかされることが多々あります。私の場合は、マリア・テレジアがその一人です。

マリア・テレジア(在位1745-1765) 画像出典:Wikipedia

一般的には、マリア・テレジアといえば「マリー・アントワネットの母親」「恋愛結婚」など、彼女の女性的な側面がマンガや小説などに描かれて有名なのではないでしょうか。私も実際そうでした。

しかし今は、マリア・テレジアに対する印象はガラリと変わっています。その影響は、先月開講した「ハプスブルク家と名画・陶磁器の世界~マリア・テレジア編」の講座内容にも現れています。

「マリア・テレジア」の講座レポはコチラから

この時に掲げた講座のゴールは「マリア・テレジアがもたらしたウィーンにおける啓蒙主義の時代背景を知る」というものでした。

なんだか難しいネーミングの表題となりましたが……皆さんは「啓蒙主義」という言葉、ご存じでしょうか?
少し難しい言葉ですので、できるだけかみ砕いて解説していきます。

マリア・テレジアの行った「文化革命」

マリア・テレジアは、在位中に2度の戦争……オーストリア継承戦争と七年戦争を経験します。その2度の戦争を経験したことで、彼女はウィーンが周辺諸国に比べて文化的・学問的に”かなり”遅れていたことに気づきます。

なぜそんなにも遅れていたのか。
実は当時のウィーンは、敬虔なカトリック信者としても知られるマリア・テレジアでさえ驚くほど、カトリック(イエズス会)による長年の支配によって、帝国内の精神文化が悲惨な状況になっていたのですね。

16世紀以降、青少年教育から演劇にいたるまで、あらゆる文化的領域が全て、イエズス会によって掌握。そのため、カトリック的教養に接触する思想や人物が全てNG!という状況になっていました。解剖学の専門書なども「淫らな書物」として一切NGなものとして扱われていました。

そんな感じでウィーンは近代的な学問・知識の流入と伝播が、事実上遮断された状態に。その結果、「病気は悪魔や魔女のせい」などといった根拠のない迷信や「絵は宗教画、歌は讃美歌でなければいけない」といったキリストの教えがはびこっていたのです。

マリア・テレジアは、「このままではウィーンはどんどん周辺諸国に思想的にも文化的にも遅れをとってしまう」ことに気づき、この状況を対処するためのさまざまな対策を行っていきます。それが、啓蒙主義の広がるきっかけとなったのです。

「神や王が絶対ではない!」=啓蒙主義思想の考え

では啓蒙主義とは、いったい何なのか。
啓蒙主義とは、簡単に言えば「理論的・科学的に正しいと思ったものに従う考え」のこと。難しい……?もっと簡単に言えば、「神や王が絶対じゃない!」という考えです。

理性的な考えや、批判的な合理主義によって古びた慣習を刷新し、知性と社会の革新を目指す思想のこと

引用:『ウィーンモダン展図録』より

マリア・テレジアは、ウィーンを近代化に向かわすために、イエズス会と距離を取る対策を次々に打ち出します。

(1)1749年 大学をイエズス会の手から国家直接の管轄下に移行

ウィーン大学では、法学部と医学部を中心に、ヨーロッパ諸国における学問の最新状況を視野に入れた本格的な大学革命を開始していきます。

その結果、法学部は有能な行政官僚の養成機関に。医学部はヨーロッパ医学研究の中心として著しく発展していくことになりました。

(2)義務教育制度の導入

これまでのウィーンでの初等・中等教育は修道士による宗教教育が一般的でした。それを読み書き・算術など、世俗的・実践的な知識の普及を追求していく教育に移行させていきます。

そして試行錯誤を重ねた結果、ついにマリア・テレジアの息子ヨーゼフ2世(在位1765-1790年)のもとで、7歳~13歳まで7年間の義務教育制度が確立されることになりました。

イギリスで義務教育法が成立したのが1880年でしたので、ウィーンにおける義務教育の確立がいかに早かったかがわかりますよね。

(3)検閲制度の改革

何より、ウィーン近代化を象徴したマリア・テレジアの政策が、検閲制度の改革でした。

※検閲(けんえつ)……表現物(出版物等)や言論を精査し、国家が不適当と判断したものを取り締まる行為

当時ウィーンの出版業者の営業は、修道院学校で用いられる教科書や祈祷書、毎年の暦など、わずかな種類の出版物の印刷・販売に限られていました。そこでマリア・テレジアは1751年、イエズス会を排除した形で新規に国家の検閲局を設置します。

これによりカトリック正統主義から分離独立し、近代的・学術的な検閲基準が導入されることになり、諸外国の最新の学術書が次々と紹介されるようになったのですね。解剖学の専門書も「淫らな書物」ではなく、ようやく「学術書」として扱われるようになります。

この検閲制度の改革により、啓蒙主義が広まったウィーンには、知識人が沢山集まるようになります。そして知識人の間で空前の「ウィーン旅行ブーム」が起こるのです。

カトリック宮廷都市にようやく訪れた「啓蒙の春」に、多くのドイツ知識人は、ひとつのモデルケースをみようとした。
(中略)

この地に実際に出かけ、君主の統治のあり方を、住人の精神生活を、自分の目で確かめ、批判することは、一時期、知識人としての義務とみなされたほどであった。

こうして、「ウィーン旅行」がブームとなり、ベルリンから、ドレスデンから、カールスルーエから、啓蒙主義者を乗せた郵便馬車が、陸続と一路ドナウの都へと向かうことになった。

引用:山之内克子著『ハプスルブルクの文化革命』(2005年,講談社選書メチエ,21頁)


さらに信教の自由も認められたため、プロテスタントやユダヤ人も集まり、文化的にも経済的にも発展していくことになりました。

去年(2019年)は、日本とオーストリアが有効150周年を記念する一年ということもあり、ウィーンに関するさまざまな展覧会が目白押しとなりました。

その中の一つ「ウィーン・モダン クリムト、シーレ -世紀末への道ー」展では、一番最初に展示されていた作品が、マリア・テレジアの肖像画でした。

「ウィーンモダン展」の最初に登場した肖像画。(画像出典:fashion headline)

展覧会の第1章のテーマは「啓蒙主義時代のウィーン 近代社会への序章」。
そう、この展覧会は、単にウィーン世紀末芸術の時代を楽しむだけのものではなく、「世紀末芸術を”近代化(モダニズム)”への過程」という視点から紐解く、非常に新しい試みの展覧会だったのです。

これまであまり注目されることはありませんでしたが、この時代の芸術は、突如として誕生したものではありません。18世紀に蒔かれた種が19世紀末に開花、結実したものでした。

18世紀の女帝マリア・テレジアの時代の啓蒙思想がビーダーマイアー時代に発展し、ウィーンのモダニズム文化の萌芽(ほうが)となって19世紀末の豪華絢爛な芸術運動へとつながっていったのです。

引用:『ウィーン・モダン クリムト、シーレ -世紀末への道ー』図録より

マリア・テレジアがウィーンにもたらした啓蒙主義が世紀末芸術につながっていく、ということを時系列で解説したこの展覧会は、逆に言えば、なぜマリア・テレジアが啓蒙主義思想をウィーンに広めたのか、という時代背景を知っておかないと「世紀末芸術の展覧会なのに、なぜ一番最初に登場するのが、マリア・テレジアの肖像画?」という疑問が湧いてきます。

この展覧会は終了してしまいましたが、図録を見返す度に新しい発見があります。そういった新しい気づきに出会うためにも、さまざまな知識を持つことは大事なのだな、と感じています。

今回のコラムを通して、マリア・テレジアの「マリーアントワネットの母親」だけではない側面を、皆様とシェアできていたら嬉しいです!

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この記事を書いた人

加納亜美子

西洋磁器史研究家 / 料理研究家
「カリーニョ」代表。カリーニョを運営する三姉妹の末っ子。

幼少の頃から洋食器コレクターの父親の影響を受け、食器の持つバックストーリーに興味を持ち、文系塾講師、洋食器輸入会社で勤務後、2016年1月~会員制料理教室「一期会」、2019年1月~高級食器リングサービス「カリーニョ」の運営を始める。
曾祖母は赤絵付けの原料となるベンガラ作りに関わっていたルーツを持つ。