東西文化の”価値観の違い”から見る「ティーカップに把手がついた理由」

実家に帰省した際、父が所有していた『美しい洋食器の世界』(講談社,1985年)という書籍の内容が興味深く、譲ってもらいました。

今から約35年前の1985年に発刊されたものですが、うーん、とにかく取材にお金がかかっている(笑)。取材記事だけでなく、さまざまな著名人が寄稿したコラムも興味深いものが多く、非常に読み応えがありました。

特に印象的だったのが、元GKインダストリアルデザイン研究所所長で工業デザイナーの故・榮久庵 憲司(えくあん けんじ)さんが寄稿された『洋の器、和の器』というコラム。


(榮久庵 憲司(1929年ー2015年)。東京都のシンボルマークや、日本中央競馬会ロゴマーク、ミニストップのハウスロゴなど数々の有名作品を手がけています。)
※画像:Wikipedia

 

ティーカップには把手があって、湯呑みにはない理由

“ティーカップの紅茶をすすりながら、湯呑みを想う。ティーカップには耳(把手(とって))があり、湯呑みにはそれが無い。なぜだろう。
これは、道具の東西比較を考えるとき、よくひきあいに出される話題である。ところで、ほんとうになぜだろう。”
『美しい洋食器の世界』(講談社,1985年,90頁)

榮久庵さんのコラムは、こんな冒頭文から始まります。

もともと西洋に茶器が伝来した時には、把手がついていない茶碗と小皿を合わせた「ティーボウル」と呼ばれるセットが使われていました。


(カリーニョでレンタル可能なアウガルテンのティーボウル&ラウンドディッシュ)

そんなティーボウルに把手がつくようになった理由に関しては、

1740年代くらいから、指の熱さを解消するためにハンドルを取り付けたティーカップが製造されるようになりました。
(Cha Tea紅茶教室著『図説 英国ティーカップの歴史 紅茶で読み解くイギリス史』河出書房新社,2012年,21頁)

といった「指の熱さを解消するため説」が一般的です。

しかし榮久庵さんは、もちろんそうしたことも把手をつけるに至った理由のひとつとした上で、その根底には、もっと広くて深い、和と洋における「道具の機能観の違い」が作用しているのではないかといいます。

 

和と洋における道具の機能観の違いとは―

西洋の食事では、食器を手に持つということがほとんどありません。プレートを卓上に置いたままで「道具」、つまりナイフやフォークなどのカトラリーを使って、器に触れます。

では日本では?
日本でもお箸(道具)を使います。しかしお箸が触れるのは食物であって、器が上品なほど、お箸が器に触れることは少なくなります。

“かわりに手で触れ、口唇で触れる。掌(てのひら)にぬくもりを感じ、唇にまろやかさを感ずる。

和の器は身体の延長として、身体にじかにつながっている。洋の器は、身体の延長である道具を介して触れる、身体からワンクッション置いた距離にある。

日本では、わが身の一部であるかの如く食器に思いを入れるが、西洋では対象化され鑑賞評価も客観的である。
これは道具観、あるいは道具の機能観の、東西における大きな違いである。”

冒頭の「なぜティーカップに把手があるのか」の理由。

仮に「手に持ったときに熱くないようにするため」という目的(機能)だけを考えてみると、湯呑みに把手がついていても不思議ではないかもしれません。しかし日本人は、それをしなかった。

榮久庵さんが言いたかったのは、単に「熱いから」というだけでなく、そこには把手という「道具」を介してティーボウル(器)に触れるという西洋人の道具観と、日本人の「器は身体とつながっている」という道具観の違いが作用しているから、ということではないでしょうか。

 

東西における器の見かた・価値観の違い

また榮久庵さんの寄稿した『洋の器、和の器』では、このような道具観だけでなく、器を目で触れる(見る)ことに対する見かた・価値観にも東西文化において違いがあると言及しています。

まず洋の器は、装飾や技巧などが一枚の器に次々と”加算”されて、価値を高めていきます。
そうやって価値の足し算された器は、「値段」という、数値として計算できるものとなり、換金価値をもつ財産とみなされます。実際に西洋では、食器のフルセットは富や家格の象徴であると同時に、いざというときには換金される家財として扱われています。

一方で和の器における価値は、沢山の要素を”掛け算”するかのように統合して器に込められていくものだと、榮久庵さんはいいます。統合だからこそ、人間の技術(人工)を尽くしたうえで、さらに自然の作用(天工)をも甘受する。それこそが和の器特有ともいえる釉の垂れや溜まり、ひび割れなどにも感得できる感性・価値観を生み出しています。

つまり、洋食器は文様も器形も揃っていなければいけないですが、和食器は絵付けも気ままに、器も不揃いでもオッケー、なのです。そこに見いだされる価値は無限で、計数不能であり、見る人それぞれの価値観(主観)に任せられるため、もはや不換の財産ともいえます。
(ちなみに、この「器は見るものの眼によって価値が定まる」という美の主観性は、千利休がもたらしたもの)

「洋の器は文明の価値をはかり、和の器は文化としての評価に身をゆだねる」

この寄稿文の最後の一文で、榮久庵さんが使った言葉。うーん、なるほど。

ひとつの側面からだけでなく、幅広い視野を持って器を眺めてみると、そこには実用性だけでは語れない東西文化や価値観の違いがあり、それを知ることでまた器の楽しみ方、文化や歴史の楽しみ方が広がるのだと感じました。

 

【このページの文章を書いた人】

加納亜美子(アミーゴ先生)

株式会社アリベ 代表取締役/『カリーニョ』代表 カリーニョを運営する三姉妹の末っ子。料理教室「一期会」を主宰し、洋食器輸入代理店でのセミナー講師、コラム執筆など多岐にわたり活動中。 通称:アミーゴ先生。これは、”世界中に沢山の友達が出来るような社交的な人になるように”と、父親が「アミーゴ(スペイン語で『友達』)から由来して名付けた「亜美子」にちなんだニックネーム。

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